壽福山 顕政寺 (日蓮宗)
福山市鞆町後地  標高:3.8m
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 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614年)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成されました。
 正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた。と伝えられています。
 自分を見つめ直すことができる癒しのお寺として、「観心行」を行っています。観心行は、日蓮宗の修行ですけど、ここではオリジナルが行われています。
特に宣伝もしていないので、
 観心行は、文字通り「心を観る行」。日常の中で自分が行なった良いことや悪いことを思い出し、それらを見つめ直し、手放していく修行。ここでは10分程度のシンプルなものでになっています。

 ここの観心行では、目を閉じて合掌をしがら、太鼓を叩きに合わせて、南無妙法蓮華経とお唱えながら、自分の心の中を見つめてます。
 様々な日々の出来事を思い出して、「あれは悪いことをしたなぁ」、「こんな良いことがあったなぁ」と思い出しながら、お題目をお唱えます。そうすることで自分自身がきれいになっていくことを感じてください。
 良い出来事は改めて感謝し、悪い出来事は反省する。そして、それらに固執することなく、手放していく。これは心に溜まった垢を洗い流すということ。心がきれいになれば、また新しいものが入ってくるようになります。
 鞆の浦は、足利尊氏の再起の拠点となり、室町幕府成立へ重要な役割を担いました。
 また、戦国時代に入ると、1573年、織田信長に京を追放された後、1576年に鞆城に入りました。毛利氏擁護の下で室町幕府15代将軍足利義昭が長期滞在、鞆幕府とも呼ばれました。
 明智光秀と足利義昭の関係を示す貴重な文書が発掘されたそうです。
 文書の中に「上意」など、将軍相当者への敬意を表す表現が多出しています。結論的にいえば、この段階で明智光秀が、かつての主君であった足利義昭(十五代将軍)を推戴し(奉じ)て、このクーデターに及んだことが分かる、非常に重要な史料だそうです。


 足利義昭が鞆にいたとき、織田信長の暗殺計画があったのでしょうか?

 隣の港町の尾道には荒木村重がおり、その隣の原には小早川隆景がおりました。また、秀吉の参謀の黒田官兵衛は、荒木村重の盟友とも言われており、村重が信長を裏切ったときには、秀吉は黒田孝高(官兵衛)を使者として有岡城に派遣し翻意を促したが、村重は孝高を拘束し土牢に監禁した、といういきさつもある。この監禁で、村重と孝高の仲が悪くなったのか、殺されなかったので恩を感じたかは分からないが、交渉することはできたのでしょう。




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