阿武兎観音
福山市沼隈町大字能登原  標高:5.1m
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・992年 花山法皇により石造十一面観音像を本尊に祀り、付近の航海の安全を祈願するために創建。
・1185年 源平合戦により被害を受け荒廃する。
・1338年 磐台寺をかねてから厚く信仰していた鞆のある漁師にある日、夢枕にてお告げがあり、その翌日お告げ通り、石造十一面観音像が阿伏兎岬の沖合で網にかけ引きあがり再安置される。
・1570年 毛利輝元が堂を再建し整備。
・1667年 歴代の備後福山藩主の手厚い保護を受ける。福山藩四代藩主水野勝種により、石垣や鐘楼、回廊を増築し現在に近い姿となる。
・1956年 観音堂が国の重要文化財に指定される。
・2004年 台風による被害を受け、復旧修理工事を実施。金箔で飾られた軒丸瓦や「天正17年」(1589年)と記載された豪華な瓦も屋根から見つかる。

 岬の岩頭に建つ朱塗りの観音堂は、その美しさから安藤広重(歌川広重)の浮世絵や志賀直哉の「暗夜行路」などにも紹介されており、今も瀬戸内の自然と調和した見事な景色をつくり出しています。現在、観音堂は国の重要有形文化財に指定され、安産・子育ての観音様として信仰を集めています。
阿伏兎 名勝 鞆公園内 大正一四年十月八日指定

 けわしい海食崖が続く沼隈半島の南端、阿伏兎岬は奇勝として知られ、岬の突端の断崖に立つ磐台寺観音堂は阿伏兎観音と呼ばれ、昔から海上交通の人びとの信仰を多く集めてきた。
 観音堂は、寛和の頃(986)花山法皇が、このあたり一帯の海上を往来する船の航海安全を祈願して岬の岩上に十一面観音石像を安置したのが開基と伝える。
後、毛利輝元が再興し、福山藩主の水野勝種によって、現在の磐台寺境内の形をほぼ整えた。
 磐台寺観音堂と客殿は、室町時代の建築様式で知られている。
本尊の十一面観音は、子授け・安産.航海安全の祈願所として広く信仰を集めてきた。
朱塗りの観音堂は、海からの眺望は絶品で、観音堂の眼下に広がる燧灘の展望もすばらしい。
  平成五年二月 沼隈町教育委員会 (案内板より)
広島県重文磐台寺客殿               福山市沼隈町磐台寺1962年(昭和三七年)三月二九日指定 この寺は、暦応年間(1338~1342)に覚臾建智が開いたものと伝えています。一時衰退し建物は荒廃しましたが、一元亀年間(1570~1573)に毛利輝元によって、観音堂とともに再建されたと伝えられています。
 この客殿は、桁行と梁間が五間半の入母屋造で、中央に仏壇の間を設け、左右に書院と奥の間を配した禅宗の方丈建築です。    福山市教育委員会
 花山天皇(かざんてんのう)は、日本の第65代天皇(17歳で即位。在位:984年9月から2年弱、その後出家)。
 出家後、紀伊国熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤めた。この花山法皇の観音巡礼が「西国三十三所巡礼」として現在でも継承されています。




 磐台寺観音堂(臨済宗)

 1570~73年(元亀年間)に、毛利輝元によって再建された観音堂で、国の重要文化財に指定されています。急峻な岩肌に、青々と飛沫をぶつける瀬戸内の海。その荒々しい自然の中にあって、この異国情緒漂う朱塗りの観音堂が、妙に調和して見えるから不思議です。
 その美しさは古くから名高く、安藤広重の浮世絵や、志賀直哉の小説「暗夜行路」の中でも取り上げられているほど。一度は訪れてみたい名所です。
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