勝楽寺(曹洞宗) 半僧坊
愛甲郡愛川町田代  標高:100.1m
 開山は天文13年(1544)能庵宗為禅師といわれています。毎年4月17日の春まつりには、近郷近在の新花嫁さんが挙式の当日の晴れ姿でお参りする習わしがあるので「美女祭り」として賑やかです。地元では平山の勝楽寺というより、田代の半僧坊という呼称が一般的です。
 半僧坊や田代の半僧坊と呼ばれている勝楽寺。遠州奥山方廣寺(静岡県浜松市北区)より勧請した半僧坊大権現が祭られていることから、「田代半僧坊」と呼ばれています。

 半僧坊大権現は、後醍醐天皇の皇子「無文元選禅師」が方廣寺へ御入山の際に出会った白髪の老人を弟子として、日々の作務等を怠ることなく随侍しました。

 禅師が「おまえは半ば僧形である」と言うと、老人は「私は半僧です。」と答えたことから半僧坊と呼ばれるようになったそうです。

 その後、無文元選禅師が亡くなると、姿を消したと言われています。
 嘉永4年(1851)建立の壮大な山門(三門)。着工から足掛け24年で落成した壮大な山門は、半原宮大工の手によって建てられた、町の指定文化財。
木造総ケヤキの入母屋三間造り、前面に唐破風のある二重門(重層門)となっています。 屋根は反りが強い銅板平葺(初期は茅葺)。
 総高16m、 階下間口9m、奥行5.6m、階上間口8.4m、奥行5mです。
 勝楽寺二十三世大雄亮仙和尚のとき山門造営を発起し、半原の柏木右兵衛安則が文政12年(1829)大工棟梁として着工しました。しかし、安則の死去にあい工事は中断。嘉永2年(1849)




安則の子、矢内右兵衛高光は父の志を継ぎ工事を再開し、2年後の嘉永4年(1851)に落成しました。

 階上には釈迦三尊と十六羅漢が安置されています。
 山門に立ち、伽藍を護る仁王は共通して一面二臂の怒怒相。上半身は裸で筋骨隆々、下半身は裳をたくし上げています。金剛杵が代表的な持物です。
 もともとは、執金剛神(しゅこんごうしん)という、釈迦を守護する独尊でしたが、しだいに二体一対で安置されるようになりました。基本は、口を開いた阿形(あぎょう)が向かって右(東)、口を結んだ吽形(うんぎょう)が左(西)です。阿形を金剛や金剛力士、吽形を力士や密迹(みっしゃく)力士と呼ぶこともあります。(「イラストでわかる『日本の仏さま』」 日本の仏研究会より)
 中門には葵の御紋があります。
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