岩蔵山 光触寺(時宗)
鎌倉市十二所  標高 25.1m
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 鶴岡八幡宮から金沢街道を東に進み、滑川の流れに沿って朝比奈峠方面へ。明石橋を過ぎて間もなく、十二所バス停から徒歩3分ほどのところにあるのが光触寺である。弘安2年(1279)に一遍上人によって開山されたお寺で、本尊は運慶作といわれる阿弥陀如来三尊象。国の重要文化財にも指定されている。この阿弥陀如来三尊象は頬が黒いの頬焼阿弥陀とも呼ばれている。その由来の描かれている『頬焼阿弥陀縁起絵巻』が光触寺の寺宝として残されている。
 光触寺は、もともと、作阿上人による真言宗の寺だった。しかし遊行中の一遍上人が弘安5年(1282)、このお寺を訪れたとき、一遍上人に帰依したことで時宗に改宗したと言われている。それ以降、今日まで念仏道場としてその名をとどめている。

 (「鎌倉なるほど事典」 楠本勝治著 実業之日本社 より)

 もとは真言宗(しんごんしゅう)の寺でしたが、1279年(弘安2年)に一遍(いっぺん)に帰依(きえ)した作阿(さくあ)を開山(かいざん)とし、時宗(じしゅう)に改めたといいます。
 現在の本堂は、改修されていますが江戸時代の建物で、内部の正面には後醍醐(ごだいご)天皇が書かれたと伝えられる「光触寺」の額が掲げられ、本堂内陣の装飾は美しい極楽の世界を作り出しています。本堂の前を横切ると池があり、その奥に菖蒲園があります。本尊の阿弥陀如来像について、次のような話が書かれています。


 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 滑川に架かる光触寺橋を渡り、石段を登って山門をくぐると、光触寺の境内へ。
 頼朝が治承四年(1180)十月に鎌倉入りして以来、元弘三年(1333)に北条氏が減亡するまで、鎌倉は武家政治の本拠地として栄えた。京都に対抗して新しい宗教も生まれた。他力本願の法然、宋僧・蘭渓道隆の来日をきっかけに発展した、栄西、道元の禅、一遍の踊念仏、異端児・日蓮の法華経。いずれにせよ、北条氏と結びついた宗教が鎌倉文化をリードし、多くの寺院の創建とともに発展していった。
(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著より)
 本尊の阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)について、次のような話が書かれています。
 1215年(建保3年)ころ、奈良から仏師雲(運)慶(うんけい)が鎌倉に招かれ、町局(まちのつぼね)という人から、48日を限って阿弥陀さまを造るように言いつけられました。運慶は苦心の末、48日問でりっぱな阿弥陀さまを造りました。町局はたいへん喜んで信心し、香を焚(た)き、花をささげて、念仏を怠(おこた)りませんでした。
 町局の家には信心深い万才法師(まんざいほうし)という坊さんが仕えておりました。







 石仏が並ぶ参道。
 木々に囲まれた境内に、ひっそりと本堂がたたずんでいる。
 本堂。
 ある日、日ごろ家の物がなくなるので、人々は万才法師のせいにしました。
町局は、下人の源二郎に、よくいましめて、顔に火印を押すように命じました。町局は急用ができて渋谷という所へ出かけました。その留守に源二郎が言いっけられたとおり、万才法師を縛(しば)って馬具のくつわ
の一部である金具を焼いて、左の頬に焼き印を押しました。ところがいっこうに焼け跡がつきません。家人は、町局が帰ってきたら言いつけどおりになっていないのを見て怒(おこ)るだろうと、もう一度押してみましたが、やはり跡がっきません。その翌日、家に帰ってきた町局は夢を見ました。夢の中に本尊の阿弥陀さ
まが現れて泣き悲しみながら、
 「なぜわたしの顔に焼き印を押すのか。」とおっしゃいました。町局は驚いて本尊を見ますと、頬に焼け跡があるではありませんか。源二郎に万才法師の火印を調べさせますと、焼け跡がありません。
 「阿弥陀さまが身代わりになられたのだ。」






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