白旗神社(八幡神社内)
標高 12.0m
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 現在の祭神:源頼朝と源実朝

 鶴岡八幡宮境内末社。祭神源頼朝・源実朝。例祭五月二十八日。他に八月九日一目実朝祭、十月二十八日文墨祭を行う。
 「天正修営目論見図」には本宮の西側に白旗社があり、明治十九年柳営社(源実朝)と合せて現在地に鎮祭した。

 白旗社については社伝によると正治二年(1200)白旗大明神の勅号を賜って、平政子(北条政子、北条政子という名は近世以降になってそう呼ぶようになったようです。1218年以降1225年までは、朝廷や寺社には吾妻鑑に記載されている「平政子」を名乗っていたと考えられる。)が創建、また源頼家の造立ともいう。

 鎌倉御所の年頭拝賀にはまず当社に詣でて、本宮を拝した。拝殿は車寄せ風の向唐破風造。川口市の鋳物師が鋳鉄で造った。
 白旗神社は、東日本に分布する神社です。その多くは源頼朝を主祭神としています。また、源氏の氏神である八幡神を主祭神とするものも多くあります。社名は源氏の旗である白旗に因むものです。

 「白旗をあげる」という言葉があります。「まいった」と相手に伝えることです。これは、源氏の白旗とは関係がなく、1907年、オランダで開かれた国際平和会議で、
「降伏のしるしに白旗を上げる」と正式に決定されたからだそうです。その理由のひとつは、
「もう負けを認めるので、自分の領土を相手色に染めてもいい」という意味だそうです。
 源氏と平家の白旗と赤旗をつくりあげた背景。

 平家の軍旗は、かつて、錦、綾、羅に文様を刺繍したものだったが、赤一色に染めてこれを軍旗とした。源氏は古法のまま自の無垢を好んだ。
 白旗の源氏が、地方において武技を練ったのに対し、赤旗の平氏は京洛の港に栄耀(えいよう)栄華の夢を極めていたのです。
 手水舎の水盤には、蓮弁の彫刻。
 いまの場所に鎮座する白旗神社でのことではないが(以前は本殿の西側にあって、頼朝社とか白旗明神といった)、豊臣秀吉のおもしろい話が、かつてのこの白旗神社に残っている。
 小田原を平定した秀吉は天正十八年七月十七日、奥州へおもむく途中、鶴岡八幡宮に参詣した。
 そして、白旗社の扉を開けさせ、源頼朝の木像にむかって話しかけたという。
「およそ微少の身で天下を取ったのは、わが国では御身(頼朝)と自分だけである。しかし御身は多田(源)満仲の後胤という名門の出で、しかも頼義・義家は東国に名を馳せ、為義・義朝も関東に威を張った。








 社殿。
 向拝が長く黒塗りが鮮やか。
 だから流人となっても、兵を挙げると関東のものがみな従ったので、天下を統一するのにたやすかった。自分はもともと氏も系図もない身であるのにこのように天下を取ったのだから、その功績は自分の方が勝っている。しかしながら御身と自分とは天下友達である」(『鎌倉市史社寺編』など)
 と、ひとりしゃべりおえると、頼朝の木像の背中をポンポンと叩いた。
 ほんとうの話かむろんわからないが、いかにも秀吉らしいエピソードではないだろうか。


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