円覚寺 仏日庵、開基廟
標高:48.9m
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 開基廟は佛日庵御霊屋とも呼ばれ、円覚寺大檀那である北条時宗公・貞時公・高時公を祀っています。 時宗公が亡くなられた後に建立されたようです。

 山号・仏光国師が開堂供養の説法を行っていると一群の白鹿が人びとにまじって聴聞したところからえらばれたと伝え、鹿の出現した洞穴-白鹿洞が仏日庵前に残る。

 現在の開基廟は、江戸時代1811年に改築されたものとされている。 その折、鎌倉仏師の三橋家によって三体の尊像が修理されています。
 北条時宗は公安9年(1284)に死去したのだが、その菩提はこの円覚寺の仏日庵に葬られた。
 その後北条貞時の時代になり、円覚寺は朝廷から太政官符を与えられ、官寺の寺格を得ることになる。貞時の死に際しては法堂が完成し、法要が営まれた。建武・暦応年間(1333~1342)に描かれた「円覚寺境内絵図」には、総門から山門、仏殿などが中国の宋にならって一直線に並び、その隆盛を今に伝えている。

 中国から日本へ渡来した無学祖元は、元の襲来を前にした北条時宗に、一喝を加えて励ました。「莫煩悩(まくぼんのう)」=「煩悩する莫(なか)れ」現在の情況をありのまま見ることを怠り、ありもしない妄想にふりまわされてノイローゼになることを戒めたのだ。元軍20万の妄想を払うと、作戦がはっきりしてきた。

 北条時宗は元寇を退けたものの、異国相手では没収できる土地がなく、手柄のあった者にもわずかな恩賞しか与えられなかった。このため、多くの武士が幕府に反感を抱く。こうして鎌倉幕府は衰退へと向かっていくのだった。
 北条時宗は公安9年(1284)に死去したのだが、その菩提はこの円覚寺の仏日庵に葬られた。

(「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著より)
 13世紀以降にはモンゴルが台頭し、ユーラシア大陸の大部分を制する。自在に馬で移動するモンゴル族は、交易に力を入れて東西の文化を融合させ、それまでの王朝よりも版図を広げ、大帝国を築いた。
 モンゴルでは1206年にチンギス・ハン(成吉思汗)が各部族をたばね、強力な騎馬軍団で急速にアジア各地を征服していく。チンギス・ハンの孫のフビライ・ハンは、1271年、南宋を滅ぼし国号を元と定めて、高麗や日本にまで侵攻した。
 北条時宗・高時・貞時の廟所。
廟所=先祖や貴人の霊をまつってある殿堂。御廟。おたまや。




 新本堂。
 開基の北条時宗(ほうじょうときむね)の廟所(びょうしょ)で、その墓堂として建てられ、のちに北条氏の本家である北条得宗家(とくそうけ)の廟所(びょうしょ)となりました。円覚寺の住職が輪番で管理していましたが、室町時代に鶴陰周音(かくいんしゅうおん)により塔頭となりました。江戸時代の仏殿には、
十一面観音坐像と、北条時宗・貞時・高時(たかとき)の僧侶の姿の木像がまつられており、拝観できます。また、境内には、茶室の姻足軒(いんそくけん)で時宗が死期を悟り出家し、同日に逝去した4月4日にちなみ、毎月4日に茶会が行われています。梅やコブシの咲く美しい所で、多羅葉(たらよう)という「葉書」の
名の由来となった樹木もあります。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より




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