四条山 収玄寺
鎌倉市長谷2-15-12  標高 5.5m
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 1271年 日蓮聖人の龍口法難の際、日蓮と共に殉死の覚悟を決した第二代執権義時の孫、江間光時の家臣の四条金吾の屋敷跡に金吾の滅後、捨身護法・法華色読の霊地として建立。

 創立当初は収玄庵と称したが大正末期の本堂改築を機に収玄寺と改称した。
 四条金吾は医術にも造詣が深く鎌倉、佐渡、身延にと終始日蓮聖人に給仕し法華信者の鑑として大聖人より厚い信頼を受けた。
 日蓮は、説法で「法華経こそ、仏の真の教えである」ということで、他の宗派を激しく批判したので、反発も強く、他宗を信じる民衆からは石や瓦を投げつけられてしまう。それでも、日蓮はひるむことなく布教活動を続け、確実に信者を増やしていった人。

 日蓮が開眼し改宗したのは慶長五年(1253)、日蓮32歳の時。比叡山延暦寺で天台宗を修めた日蓮はその後、奈良、京都のいろいろな宗派のお寺でも学び、法華経にたどりつく。そして、生まれ故郷の安房の国で開宗する。蓮長という名を改めに日蓮と名乗った。

 法華経は女人往生(にょにんおうじょう)を初めて説いたため、平安時代以降、普賢の女性信者が増加しました。
 ここは昔、日蓮の弟子の四条金吾頼基(よりもと)の屋敷があったところです。1271年(文永8年) 9月、日蓮のいた庵に北条時宗の使者が大勢きて、日蓮を由比ケ浜に引きたてていきました。このことを知らせる使いが頼基の所に走り込んでくると、頼基兄弟はすぐさまはだしで由比ケ浜にかけつけました。
 「日蓮上人を殺すならば、自分を身代わりに段してください。」
と申し出たのですが、そのため役人ににらまれてしばらく土牢(つちろう)に入れられたり、主人の江馬光時(えまみつとき)から領地を没収(ぼっしゅう)されたりしましたが、信仰をまげなかったということです。




 江戸時代になってこの土地に妙譜尼が妙詣尼(みょうけいに)が収玄庵(しゅうげんあん)という寺を開き、1923年(大正12年)に光則寺の日慈(にちじ)が本堂を建て、第二次世界大戦後に収玄寺として独立しました。
 黒い門の中には、「四条金吾邸(しじょうきんご)跡」と刻まれた大きな石碑が立っています。日蓮宗の信者であり、日露戦争のとき連合艦隊を率いた東郷平八郎(とうごうへいはちろう)元師の筆によるものです。植え込みの間に四季折々の花が咲く庭があります。本堂の屋根は深い傾斜をもった銅葺(ふ)きの
 東郷平八郎はこんなことを言ってるんです。
 海軍の戦いは敵の損害が見えないで、自分の損害ばかりが目につく。海を隔てて大砲で撃ち合いをしているので、自艦の上では人は死ぬし物は飛び散るし、実はそういう時は敵艦も同じような状態なのだけれども、自分のほうの損害だけ見える。だから、下手をするとどうしても自分のほうが負けてると思いがちなんです。しかし、こちらが苦しい時は、ほとんどの場合敵も同じぐらい苦しんでいると思っていい。そこを忘れないようにしないと司令官が判断を誤るというんですね、と。
 「四条金吾邸址」の石碑が目をひきます。石碑は日蓮宗の信者で、日露戦争の時連合艦隊を率いた、東郷平八郎の筆によるものです。
青く美しいものです。本堂には日蓮と四条金吾夫妻の像などをまつってあります。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」


 本堂。
 現在の本堂は1923年に建てられたもの。
 「四条金吾邸址」の字は東郷平八郎のもの。
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