龍護山 満福寺(古儀真言宗)
鎌倉市腰越二丁目  標高:13.4m
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 開山は行基(668~749)と伝えられ、本尊は薬師如来です。源義経(1159~1189)が腰越状を書いた所として有名です。境内には弁慶が墨をするのに水を汲んだといわれる硯池、腰掛石があります。(案内板より)


 鎌倉時代の『玉葉(ぎょくよう)和歌集』に行基の歌だという「山鳥の ほろほろと鳴く 声聞けば 父かとぞ思ふ 母かとぞ思ふ」は、その生命観を詠んだ和歌として広く知られています。
 山の森の奥から声が聞こえてくる鳥は、亡き父だろうか、母だろうか、と感じられるのである、と。
 元暦2年(1185年)5月、源義経が兄頼朝に怒りを買い、鎌倉入りを許されず腰越の地に留められた際に、頼朝に心情を訴える腰越状を書いた寺として知られる。寺には弁慶が書いた腰越状の下書きとされる書状が展示されており、境内には弁慶の腰掛け石や手玉石など、義経・弁慶ゆかりの品々が多数展示されている。

 石段を上ると、「龍護山」という額が掲げられた山門があり、柱には「義経腰越状旧跡満福寺、と書かれた看板があります。山門をくぐると、正面に本堂、左横に盧婁があります。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)
 この寺の開山は行基といわれています。寺の伝えによれば、奈良時代に関東地方に悪い病気が流行してたくさんの死者が出ました。聖武天皇はこれを心配し、行基に「これから関東に下って悪い病気を除くように。」と命じました。はるばる鎌倉に来た行基は、前に広がった青い海原と後ろの山並みがとても美しく
見えたので、
 「ここでお祈りをしたら、きっと流行病もなくなるに違いない。」
と思いました。また、漁師が海難事故にあうことが多いと聞いたので、さっそく薬師如来、日光・月光菩薩の三尊を彫って祈りをささげると、不思議なことに




あれほどはやっていた病気もぴたりと治まり、海難事故もなくなりました。そこで行基は、仏の功徳をたたえてここに寺を建てることにしました。これが満福寺の起こりといわれます。
 中興開山は、1173年(承安3年)に没した高範といわれ、本尊は薬師三尊で、本堂にまつられています。本尊の右奥には阿弥陀如来像がまつられています。奥の位牌堂には、阿弥陀如来像、弘法大師像、十一面観音像とともに、頭が孝人で、体が蛇という宇賀神像がまつられています。宇賀神は穀物の神として信仰された神で、
「義経宿陣之趾」の史跡案内の石碑が立っています。

(鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より)
弁財天と一体化し、多くの弁天像が頭上に宇賀神像を載せています。
 本堂の軒の正面にある梁の上には、武将姿の義経と文机の前で筆をとる姿の弁慶が浮き彫りされていて珍しいものです。また、本堂の天井には龍の絵が描かれ、奥の位牌堂の天井には柄が全て違う48種類の
鎌倉彫による花が飾られています。さらに、本堂のふすまの表裏には、義経に関する有名な話の場面の絵が32枚、鎌倉彫の技法を取り入れて描かれています。本堂の中にある「龍護山」の額は、戦前の首相で、鎌倉山に住んでいた近衛文麿が書いたものです。
 境内には、山門の左に鐘楼、右には










   弁慶の手玉石

・弁慶の泣き所 … 弁慶ほどの豪傑でも、痛がって泣く急所の意で 向こうずね。転じて、最も弱いところ。弱点。アキレスけん。


・内弁慶 … 「内弁慶」の「内」は「家の中」という意味で、家の中では「強くて威勢がいいこと」を表しています。
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