八阪神社・厳島神社
尾道市久保二丁目  標高:2.1m
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 この神社のお祭りで、勇壮な喧嘩神輿の三体廻しが、渡し場、中央桟橋前、浄土寺下の三ケ所で行われていました。昔は非常に激しく、御輿を海に投げ込んでいる場面がありましたが、いまはどうなっているのでしょうか?

 この付近は、「新街」と呼ばれる飲み屋街。横道に入り込むと「迷路」です。しかし、どこかで広い道に出ますので、まあ、なんとかなります。しかし、酔っ払っているとどうなるかな?

 志賀直哉が尾道に住んでいた頃は、この界隈を遊び回っていたのかな?

 尾道の花街の人通りの激しい店先で、酒臭い乞食坊主が寝ているので迷惑この上ない。その人が俳人の種田山頭火であったとか。

色町の中の神域

 尾道市久保二丁目、八坂神社(やさかじんじゃ)は歓楽街囲まれた場所にあり、このあたりは、かつて海の中に突き出しており、「築島」と呼ばれたようです。もとは西久保、常称寺境内にあり、明治元年の神仏分離令により、厳島神社に合祀され、翌二年に現在の場所に移りました。その為、鳥居には「八坂神社」と「厳島神社」の額がかかっています。周阴に遊郭が多かった時期には、この神社に遊女のお参りが絶えなかったそうです。

尾道の遊郭

 良質な花崗岩を産出し、また石材などの運搬を港で行うことができる等多くの条件に恵まれた事で職人が集まり、尾道は「石の町」となりました。江戸時代には石屋町が出来、明治末、昭和初期まではそこに石屋が並んでいました。浄土寺山や千光寺山には今も石材を切り出した跡があります。この八坂利社にも、「石の町」を思わせる石造物が幾つかあります。

「かみのらぼ 1号」(尾道市立大学刊)より転載
 入ってスグ右手に樹齢五百年におよぶかと思われる銀杏の手前に高さ4mもあろう簪灯籠がたてる。四本柱の一本には文政十年(1827)建立と、また台座には石工善三郎作と刻まれています。
「かんざし灯籠」の伝説は似たものがいくつかあります。その一つ。

 灯籠には石工善三郎作と刻まれ、この珍しい灯籠建立のいきさつについて幼いころから明神(八阪神社)境内で遊び育ち、老人ホーム「清風園」で晩年をお
くり、昭和三十九年十二月、八十三才にして同園で歿くなった杉山エイさんが生前、尾道語民研究会員に語られた話しをそのまま紹介してみよう。
 「昔このあたりは非常に淋しい所でした。雨のしとしと降る薄気味悪い夜の事。急ぎ足で明神さんの前を通りかかつた商人が、ふと見ますと銀杏の木の下に




傘を差した十六~七才の娘さんがうらめしげにじっとこちらを見ております。しかしその娘のうらめしげな泣き声の気味の悪い事、商人は一瞬身の凍るような恐ろしさにおののぎ、後も見ず駆け出しました。それから雨の降る夜となるとその娘を見たと言うもの、いやうらみ言を云う声を聞いたと云う者が次々にあらわれました。人々はこの銀杏の木の精が出るのだろうか、それとも近くの色街の娼婦が恨みを胸に秘めたまま死んで往生出来なくてその霊が出るのだろうか?
と噂しあいました。そんなある日、お茶屋の主人が 
「銀杏の精であれ、娼妓の恨みであれどちらにしても娘さんの事、噂にきけば銀杏の木の前に出る娘さんは、かんざしをさしてないそうな、それでひとつ供養のためにかんざし灯籠を造っては…」と云いました。町内の人身は、この粋な提案に賓成して文政十年六月、明神さん(八阪神社)の銀杏の木の前に大きなかん
ざし形の灯籠を立てました。それからというものは、その娘さんを見たという人はいませんでした。
(「郷土の石ぶみ」山陽日日新聞刊より)








 玉乗り型の尾道最古のもの。
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