海の駅
尾道市土堂二丁目  標高:2.7m
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 ヨットやボートの停泊設備です。

 住吉浜といい、昔から船着場がありました。一部復元されています。

 「海の駅」なのですが、食堂や売店の施設はありません。ホテルや食堂、商店街が近いので、停泊施設以外は造らなかったのでしょうか。
[尾道町の政治体制]

 戦国時代、尾道は毛利氏の支配下にありましたが、その支配方法は、自分の家臣を尾道に配置したのではなく、地元の豪商と主従関係を結ぶことで間接的に行われました。なぜそのような方法をとったのでしょうか。それは新たに家臣を配置し、一から支配体制を作り上げるよりも、もとよりその地で活動していた商人と手を結ぶほうが容易に支配できたからです。しかし一番の理由は、当時から経済活動が盛んだったこの地を治めるためには、その中心であった商人たちと手を組むことで彼らが持っている流通ルートを掌握することもでき、軍事物資や、中国や朝鮮の高価な品物を入手しやすかったという利点がありました。

 (「尾道の歴史と遺跡 -近世編-」より 2013年3月発行:尾道市教育委員会)
 戦国時代から江戸時代の初め、尾道は歴史の上で逼塞していたのですが、時代が平穏になって西回り航路が開かれ、北前船が入ってくるようになると商業のまち尾道はまた活気を取り戻します。ただし、尾道の自前の船があちこちに出掛けたのではなく、 寄港する北前船を利用することで繁栄したようです。
 北前船はいわば動く商社ですから、仕入れた品物をよその港で売る。その価値差で儲けていましたので、どこで売れば最も得かという情報に長けていました。
 では、なぜ北前船の寄港に尾道が選ばれたかといいますと、積んだ荷が売れると同時に、買い積みのできる港であったこと、尾道が瀬戸内の物産の集散基地で
  
  
あったからです。
 尾道では、北海道の昆布や魚肥、北陸の米がおろされ、古着まで含めた綿製品や瀬戸内の塩などが積まれました。なかでも、綿製品は綿花のできない北の地では庶民の衣料として最も必要なものでしたから、多く積まれました。尾道の東、松永湾岸では、北前船の運んでくる魚肥をつかって綿花栽培の増産をはかる循環も生まれました。
 尾道の町は、といいますと、それまでの商業形態や商圏を飛躍的に発展させることで、生産物を変え、商人の生まれ変わりも起こり、町割りをも変えてゆきます。産業では、造酢業が起こり、鍛
冶作業は需要に応じて「錨」を鍛造し、特産品にまでなってゆきます。




 明治40年頃の荒神堂浜。林立する帆船の向こうには住吉神社が見える。まだ、機帆船や発動機船は見えない。
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