駿州(静岡県)久能山に仮埋葬された徳川家康の遺骸は、家康の遺言により一年後、野州(栃木県)日光に移送されることとなった。
遺骸移送につきそう行列は千人近くに達し、荘厳の中にも悲しみを秘めて、1617年3月18日に出発した。途中、小休止する場所、宿泊する場所は、家康ゆかりの地が選定されていた。
家康の遺骸移送の行列は、座間宿に入り宗仲寺で小休止をした。座間宿に到着した一行は、遺骸を寺の境内に建てられた御殿に安置して、地頭内藤若狭守等の心づくしの接待を受け、昼も近かったので弁当の馳走にあずかり緊張感しばし解きほぐしたことであろう。
その間座間宿村では、町田の木曽村までの役夫として人足三人、馬一頭を整え、一行の出発を見送ったと「宗仲寺史」に記されている。
カテゴリーアーカイブ: からだの散歩
尾道 石造の神亀が手水舎に「艮神社」
石造の神亀(しんき)
神亀には耳があり、繊細に掘りがされています。亀の口から水が出ています。「亀は万年」と言われて縁起が良く、亀の長寿にあやかったものなのでしょうか。
瑞祥の動物として神聖視されたカメ
古来、カメは瑞祥(ずいしょう:めでたいしるし)を告げる動物として崇められました。たとえば715年に元正天皇が即位したとき、松尾大社の御手洗谷に霊亀が現われたことを瑞祥とし、元号が「霊亀」と改められた。聖武天皇の時代の729年には背中に「天王貴平和百年」という文字が浮かび上がった霊亀が献上されたため、「天平」と改元されています。また、770年、肥後国より白い亀が献上されたことから「宝亀」と改められるなど、カメと改元が結びつけられた例は多く残る。カメを神聖な動物として信仰していた様子がうかがえます。
鎌倉 観音さまを安置するのによい場所「杉本寺」
鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。
その後、光明皇后(こうみょうこうごう)は夢の中で、
「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」
という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」
と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前(ふじわらふささき)と行基に命じて、財宝を寄付して734年(天平6年)の春、この寺を開いたと伝えられています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
鎌倉 観音さまを安置するのによい場所「杉本寺」
鎌倉で最も古い天台宗の寺です。寺の伝えによると、731年(天平3年)行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が関東地方を歩いたとき、鎌倉の大蔵山から町を眺め、
「こここそ観音さまを安置するのによい場所だ。」
と思い、人間の大きさぐらいの仏像を彫刻しこの山に安置したそうです。現在、本堂内に本尊として三体の十一面観音像がまつられていますが、内陣の左側に立っている平安時代のころの作という本尊がこれだといわれています。
その後、光明皇后(こうみょうこうごう)は夢の中で、
「東国には中央のカがいきわたらず、悪人が絶えない。願わくば、財宝を寄付して、東国の人々を救ってください。」
という言葉を聞き、不思議に思い行基に尋ねたところ、
「それはたぶん、私が鎌倉の里に安置した観音菩薩の言葉でありましょう。」
と答えました。そこで光明皇后は右大臣藤原房前(ふじわらふささき)と行基に命じて、財宝を寄付して734年(天平6年)の春、この寺を開いたと伝えられています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
厚木 北条氏家臣による創建「法界寺」
尾道 奇祭ベッチャー祭の「吉備津彦神社」
寶土寺西側の鳥居のある一劃は吉備津彦神社、俗にいう一宮さんで、毎年11月3日文化の日に、尾道全市の子供たちを湧き立たせる奇祭ベッチャー祭の祭神で、ベタ、ソバ、ショーキーはこの神社から繰り出すのである。
神輿と獅子頭を先頭にベタ・ソバ・ショーキーの三鬼神が市内を練り歩き、子どもたちを追い回す神事。「ベタ」「ソバ」が持っている「祝棒」で突かれると子宝に恵まれ、「ショーキー」が持っている「ささら」で叩かれると頭が良くなるとされ、子供達は「ベッチャー、ベッチャー」とはやし立てる。江戸時代に流行した疫病退散祈願から始まった西日本有数の奇祭。
「桃太郎」の話しに関係があるのでしょうか?
吉備の国は、後の令制国では備前国・備中国・備後国・美作国吉にあたるとのこと、尾道は備後国だし、桃太郎は、犬・猿・雉を家来にしている。ベタ・ソバ・ショーキーが三匹の家来だとすると似ています。それに、子供達を追い回し、叩いたりしています。
鎌倉 水戸光圀が7日間ほど逗留「英勝寺」
鎌倉 石仏補陀落迦観自在窟 「円覚寺 大方丈」
相模原 西部 鎌倉幕府や北条氏の保護が「無量光寺」
1261年 23歳の一遍はこの地を訪れ、草庵を設けたのが始まり。その後上人は2度この地を訪れた。その高弟である他阿真教が1303年2月に遊行を終えて止住するために念仏道場を開いたのが起源であろう。1319年に真教が亡くなると、初期時衆教団の聖地となり、参詣者が引きも切らなかったことが他阿呑海の法語に遺っている。
鎌倉幕府が滅亡したとき、鎌倉幕府からの帰依を受けた無量光寺は一時衰退した。
戦国時代に無量光寺は歴代小田原北条氏の保護を受け、南関東を中心に勢力を誇った。しかし1590年に小田原北条氏が滅亡し、たび重なる火災のために、再び不振となった。
プラスに考える知恵の言葉 …… 一遍
「身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ」
一遍は、伊予国の豪族・河野通広の子。河野氏といえば、瀬戸内海の水軍を率いた有力な武士である。しかし、承久の乱で京方について没落し、一遍が生まれたころは、かつての力を失っていた。
尾道 夕方“鐘の音”が市街に響く「千光寺」

見晴らしの良いところです。“観光のお寺さん”ですね。毎日夕方に撞く“鐘の音”が旧市街に響きます。
寺伝によれば806年に空海(弘法大師)によって創建され、源満仲(多田満仲)によって再興されたというが確証はなく、中世以前の寺歴は判然としません。
興趣千変万化、奇岩、奇勝など四季を通じて自然の神秘を探賞できます。
鎌倉 北鎌倉駅方面の街並みが良く見える「八雲神社」
元村社で山ノ内の鎮守である。祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。例祭7月15日。境内社に稲荷社がある。小高い丘から見下ろすと北鎌倉駅方面の街並みが良く見える。古くは牛頭天王を祀ったため牛頭天王社と称していた。「相模風土記」に記すことによると、村人がこの地で疫病退散のために京都八坂祇園社を勧進したのが始まりだという。その後、この地に居を構えた関東管領上杉憲房が篤く信仰した。一方、社伝によると文明年間(1469~1486)に上杉家が扇ガ谷と山ノ内に分かれて争ったとき、山ノ内上杉家の憲房が武運長久を祈って、京都の八坂神社から勧進したという。
境内裏側には庚申塔群がある。この中には寛文5年(1665)の銘のある石造庚申塔が存在する。これは鎌倉市内最大最古。
また境内には清明石なるものがある。昔は十王堂橋を渡った道路の真ん中にあったらしい。この石をわざと汚したり、踏みつけたりすると祟りがあるという。しかし、この石を知らずに踏むと足が丈夫になり、足を痛めた人は石を清水で洗い、塩や線香をあげて拝むと治るとも言われたという。
厚木 樹齢約600年の御神木イチョウ「荻野神社」
尾道 五重塔から三重塔へ「天寧寺 三重塔」
鎌倉 洞窟の壁に磨崖仏「長谷寺」
福山 「鞆の大仏」とも阿彌陀如来坐像「阿弥陀寺」

木造阿彌陀如来坐像(鞆の大仏) 光背までの高さ約4m 。元禄16年(1703)に作られた丈六の大仏。
造像を発願した中興・雲洞上人は、多くの人々を救いたいと願っていたところ、現に阿弥陀さまが現れ、その姿をもとに仏師に願いこの像を作ったといいます。
相模原南 北条氏照の娘貞心尼が中興開基「天應院」
鎌倉 円覚寺の塔頭の中でも最も古い「白雲庵」
尾道市「向島(むかいしま)一周自転車旅」
厚木 高遠藩の石工達が出稼ぎで石仏を「広沢寺」
曹洞宗に属し薬師如来を本尊とし、創立は後花園天皇の時代、相州足柄上郡の最乗寺了庵彗明禅師が開山しました。
禅師は、当時七沢城主であった上杉定正と親交が深く、寺内には領地の一部を寄附してもらった上杉定正夫婦の遺骨が埋葬されています。
厚木の七沢から、清川村の煤ヶ谷および伊勢原の日向にかけては石造物に適した石を産する石山があったが、石を切出して細工する石工がいなかったために手付かずのままであった。その石山を開発したのが信州高遠の石工たちで、それが明治以降の石材業発展の礎となった。
、高遠の地は田畑が少なかっただめに農家の次、三男が働くほどの農作業の仕事がなかった。
高遠藩はその対策として、元禄の初め頃に石工や木地師その他の職人になることを奨励した、それは、職人の中でも手間賃は石工が最も高かったので石工になる者が多かったといわれている。
しかし高遠の領内だけでは仕事の量が限られているため、藩では石工の他国への出稼ぎを許した。それにより、信州の他にも甲斐・相模・武蔵・駿河・上野などの各地に石工が集団をつくって出稼ぎに出かけるようになった。但し、藩は村役人に外に出る石工の管理を厳重にさせ、また石工の稼ぎ高に応じた運上金(租税)を課したのであった。
鎌倉 新田義貞が北条方の戦死者を弔う「九品寺」
開基は、新田義貞と伝えられています。1333年(元弘3年)新田義貞軍が北条氏を討つため鎌倉攻めをしたとき、この場所に本陣をかまえたということです。北条氏が滅びたあと、義貞は北条方の戦死者の霊を慰めるため、1336年(延元元年)この地に九品寺を建て、義貞が日ごろから尊敬していた風航順西(ふうこうじゅんさい)和尚(おしょう)を京都から招いて開山とし、戦死者の霊を厚く弔ったといいます。
山門と本堂にそれぞれ掲げられている額の「内裏山」と「九品寺」の文字は、新田義貞が書いた字の写しと伝えられています。もとになった額は、傷みがひどいため本堂に保存されています。
鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より