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ずっと真っ直ぐ。
清泉(せいせん)小学校があり、その西の角に「大蔵幕府旧蹟(きゅうせき)」の史跡案内の石碑があります。この石碑のあたりが幕府の中心地でした。今も土地の名前に西御門(にしみかど)とあるように、四方に門があり、それぞれ東御門(ひがしみかど)・西御門(にしみかど)・南御門(みなみみかど)・北御門(きたみか
ど)と呼ばれていたようです。
源頼朝は1180年(治承4年)鎌倉に入って、この場所に平安時代の貴族と同じように寝殿造(しんでんづくり)の屋敷(御所)を造りました。その後頼朝は全国を統一し、1192年(建久3年)に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になるまでの間に、ここに侍所(さむ
らいどころ)・公文所(くもんじょ)・問住所(もんちゅうじょ)などの役所をつくって幕府のかたちをととのえました。その後、1225年(嘉禄元年)北条泰時(やすとき)が若宮大路の宇津宮辻子(うつのみやずし)に幕府(御所)を移すまでの間、ここが武家政治の中心でした。