弘延山 実相寺(日蓮宗)
標高 7.7m
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 1271年 日蓮聖人が佐渡に探された際、日昭上人がその間の、一門の教化、統一に当たった「浜土の法華堂」がはじまりとされる。1284年 越後の風間信昭の援助で法華寺とした。

 日昭上人は武家の出であるが、日蓮聖人が立教開宗した1253年に弟子となり、法器第一、智慧第一と称された。「六老僧」という直弟子六人の筆頭で、師亡きあと一門の長老と仰がれた。母親は工藤祐経の娘という。

 この場所は、曽我兄弟に父の仇として討たれた武将、工藤祐経(すけつね)の屋敷跡と伝えられる。1193年5月28日、源頼朝が催した富士裾野の巻狩りの折、曾我兄弟に討たれた工藤祐経の孫にあたるといわれる日昭が開いた。


 境内はさほど広くなく、静かで落ち着いている。鎌倉は、武士の屋敷跡にお寺が建てられていることが多く、武家の屋敷そのものは見ることができないようです。

 境内:無料
 この地は、曽我(そが)兄弟に父のかたきとして討たれた鎌倉時代の武将の工藤祐経(くどうすけつね)の屋敷跡といわれています。13世紀の末頃、工藤祐経の娘の子という日昭(にっしょう)が、その屋敷跡に法華堂を建てたのが始まりです。このお堂は、当時「浜(はま)の法華堂(ほっけどう)」と呼ばれました。「浜」は、このあたりを呼んだ当時の地名でしょう。日昭は日蓮(にちれん)の直接の弟子で、日蓮のあと最長老格の僧となった人です。
 その後、法華堂は1284年(弘安7年)に法華寺(ほっけじ)という寺院になり、後に伊豆(いず)の玉沢(たまざわ)(今の三島市)に移りました。その跡に1621年(元和7年)、日潤(にちじゅん)によって再建されたのが現在の実相寺だといわれています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 山門は薬医門。
 右手に「日昭尊者(にっしょうそんじゃ)浜土(はまど)法華堂零跡(ほっけどうれいせき)」と書かれた木札がかかる山門を入ると、正面に本堂があり、本堂の軒下の柱の左右に、象に似せた象鼻(ぞうはな)の彫り物があります。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より






 明治(めいじ)のはじめ、実相寺は大火で焼失し、今の本堂はその後再建されたものです。
 公開されていませんが、本堂に安置されている本尊は、三宝本尊(さんぽうほんぞん)で、一塔両尊(いっとうりょうそん)ともいわれています。一塔は「南無妙法蓮華経(なむみょうほう
れんげきょう)」という日蓮宗の「お題目」が書かれた塔で、その塔を中心として両脇に釈迦(しゃか)・多宝如来(たほうにょらい)像がまつられています。また、その左右には四菩薩(しぼさつ)もまつられています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より






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