鎌倉大仏 高徳院(詳名:大異山高徳院清浄泉寺)(浄土宗)
鎌倉市長谷四丁目  標高:14.0m
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 江戸時代の1712年(正徳2年)増上寺(ぞうじょうじ)の祐天(ゆうてん)が江戸の豪商(ごうしょう)野島新左衛門(のじましんざえもん)の助けを得て大仏を修理しました。大仏の前にある灯篭は野島新左衛門が寄進したものです。大仏の後ろにまわると青銅製の4枚の蓮の花びらが置かれ、それに女性も含む協力者の名が刻まれています。台座を造ろうとしたのですが果せなかったのです。
 奈良の大仏は、天皇の命令で国のカをもって造られたのに対して、鎌倉の大仏は鎌倉幕府に関係する武士の支援はあったでしょうが、広く民衆から集めた浄罪(じょう
 「700年もこうして座っていて大仏さまも苦痛でしょう。散歩するときに履いてください。」ということで、秋の豊作を感謝して供えたのです。この大仏が腰をあげて東京まで歩くと、1時間くらいで行ける計算だそうです。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
ざい)で造られたということがいえるでしょう。中国の宋銭を材料として、中国の影響を受けながら、鎌倉彫刻の最高の水準をもっている仏像で、当時の鎌倉文化を示しているものとして貴重です。
 1923年(大正12年)の関東大震災では約50cm前にすべり出したのでこれを修理しました。昭和
になって日本の文化財で初めて強化プラスチックで補強し、大地震にも耐えられるようにしました。大仏の中に入ると、昭和の補強と昔鋳造(ちゅうぞう)したときの跡がとても対照的に感じられます。
 右側の回廊に約2. 8mの大わらじが飾られています。これは茨城県の児童が作って寄付したものです。






 高度で独自の技法で造られた鎌倉の大仏は、大仏殿跡が国の史跡で、世界文化遺産候補地とされています。




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