極楽寺(真言律宗)
標高 20.8m
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 建立したのは、北条義時の三男・重時。重時は、執権を補佐する連署まで務めた人ですが、政冶に執着することなく、出家してその邸に極楽浄土の姿を現そうとして大寺建立を思い立ち、1259年に造営を始めた。ところが工事半ばの1261年に重時は亡くなった。その子・長時と業時が父の志を継いで完成させた。

 鎌倉時代後期には、和賀江島(港)の管理を担い、積荷への徴税の権利を認められ多いに繁栄していた。

 現在の極楽寺は、往時の繁栄ぶりを忍ばせるものはなく、小さな古寺といった感がある。忍性が招かれて開山となった。最盛期は七堂伽藍を備え、大小49の支院があったという。そのころは、稲村ヶ崎小学校の敷地に方丈などの中心部があり、まわりの谷々には多くの末寺が展開していた。
 現在の山門は、往時の四脚門の一部なのだろうか?
 北条重時が、社会(慈善)事業で知られる忍性(にんしょう)を開山として、現在地に移した寺です。中世の様子を後に描いたといわれる「極楽寺境内絵図」の建物の遺構が、発掘調査で確認されています。忍性の墓と「延慶三年」(1310年)の年号がある五輪塔は国重文です。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より


 極楽寺は真言律宗(しんごんりっしゅう)の寺です。真言律宗は釈迦(しゃか)の生きているときの教えを改めて守りなおそうと、仏の示したきまりや教えを厳しく行い、生活することが仏に近づくもとだと考えるもので、律宗に真言宗の教えを取り入れた宗派です。

 極楽寺は、執権(しっけん)北条義時(ほうじょうよしとき)の子の重時(しげとき)が日ごろ尊敬している忍性(にんしょう)と相談して、地獄谷(じごくだに)といわれたこの地に、1259年(正元元年) に移建されたといわれています。重時は寺の完成を待たずに世を去
ています。今は吉祥院の跡に本堂が再建きれています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
りましたが、その子長時(ながとき)・業時(なりとき)がカを合わせて寺の事業を継続し、忍性(にんしょう)入山の後は七堂伽藍(しちどうがらん)・四十九院を備えた大寺院の造営が整いました。二重屋根の金堂、十三重の塔をはじめとしてたくさんの建物が建つ壮大さは、寺の盛んな時代をしのんで描かれた古い絵図で寺
に伝わっています。特に十三重の塔はたいへん高く、上部は遠くからも見えたと伝えられています。
 しかし、1333年(元弘3年)、鎌倉攻めの戦にあい、寺は焼けたり壊れたりしました。さらにその後、何度かの災害のため、当時の建物はすべてなくなり、広かった境内の大部分は稲村ケ崎小学校や住宅地に変わっ






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