大悲山 慈徳院 (臨済宗妙心寺派)
福山市鞆町後地  標高:5.3m
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 慶長年間、芸備両国の大守の福島正則によって、鞆の浦の寺々はほぼ一直線に結ばれ、寺町が形成されました。その寺町筋に位置するお寺のひとつが、この慈徳院です。

 福島正則が大檀越(だいだんおつ/「檀越」とは、仏教を後援する人のことをいいます。仏僧に帰依し、衣・食・住に関してのお布施をしたり、お寺の経営を支えたりします)となり、ご本尊・聖観世音菩薩像を寄進。そして、高僧・松雪得松禅師が開基したと伝えられています。その後、中興の祖・月湛(げったん)亮和尚がご本堂を再建し―。現在でも、境内に美しい緑をたたえながら、鞆の浦の町に静かに佇んでいます。
 福島正則は、キリシタンに対して友好的であり、妻子は洗礼を受けたと言われている。 海駅であった鞆には、そうした藩主の中でキリシタン文化が広まり、元禄3年(1690)の文書には「備後国沼隈郡鞆商売人切支丹宗信次女本人・・・旦那寺同所禅宗慈徳院ニ而土葬ニ取置・・・」『芸備キリシタン史料』とあり、慈徳院とキリシタンの関係は深かった。

 この時代のキリスト教の宣教師は、もう一方で武器商人と言っても良く、武将に近づき、武器を提供するかわりに、キリスト教を布教し、精神的な支配で植民地づくりに従事していたようです。
 しかし、秀吉はキリシタンを禁制にしました。その理由は、キリシタンを容認することのデメリットが目立ってきたからです。キリスト教布教の背後にある「南蛮貿易」でもたらされる鉄砲、大砲、弾薬などの「武器」は、戦国時代が終われば無用のもので、武器を大量に持つ者が出てくることは、秀吉からすればむしろ脅威だったからです。
 それにもう一つ、許しがたい側面を持っていた。それは「人身売買」です。ポルトガルは、長崎で日本人の奴隷を買い込み、世界各地に輸出していたのです。
 慈徳院の山門は、寺伝によると昭和17年ごろに再建されたものだといいます。この山門は薬医門の形式をとっており、屋根には立派な鬼瓦が見られます。
 その山門をくぐると、ふわりとした空気が流れる静かなお庭が迎えてくれます。四季折々で表情を変えるお寺さんのお庭―、鞆っこにとっての癒しの空間です。




 本尊は薬師如来。
 薬師如来の梵名はバイシャジヤグルバイドゥールヤプラバージャと長ったらしい。バイシャジヤグルとだけいうこともあるが、バイシャジヤグルとは医者の中の首長の意味で、バイドゥールヤは青いサファイヤの瑠璃。
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