興楽山道山院 本願寺(時宗)
福山市鞆町後地  標高:6.5m
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 開基は鎌倉時代の一遍上人と伝わる由緒ある時宗寺院です。開祖一遍は文永1274年、熊野権現の証誠殿の神殿において悟りを開いた後、16年間全国を遊行し1289年に神戸の観音堂で歿した人です。

 元は沖見堂(沖御堂)と称して鞆港に近い西町にありました。「沖見堂」の名称から、航海の安全を保つ灯台の役割を果たしていたのではないかという説もあります。

 寺領も広く、境内に五坊を有する大伽藍でしたが、毛利氏に寺領の大半を没収され、その後福島正則によって行われた慶長年間の町割りで町の北の端にあたる現在地に移転しました。江戸時代を通して、朝鮮通信使の定宿でもあったのですが、明治以後は衰退の一途をたどり、無住の状態が続いていました。

 無住だった本願寺も1972年、原井友治氏が父友吉氏の遺志を継いで自ら住職となり本願寺を再建、更に原井友三氏が四九代住職として本願寺を維持しています。
 福山藩では時宗の寺院は珍しく、江戸時代、福山領内の時宗寺院はいずれも鞆の浦にある原村の永海寺と、西町の本願寺の2寺だったそうです。永海寺はその後焼失して廃寺となってしまったので、現在は本願寺のみが孤塁を守っています。開基一遍上人の立像も安置されています。
 
 時宗寺院の多くは海港に分布しています。福山の鞆には興楽山陽場院本願寺、雲波羅山福寿院永海寺があったのですが、永海寺は1754年に焼失し今はありません。本願寺は古くは澳(沖)の御堂と言われた。隣の港町尾道には海徳寺、常称寺、海福寺、西郷寺、慈観寺等が存しています。尾道の時宗寺院で最も古いと言われる海徳寺も沖の道場と言われ、かつては尾道港の沖にあって常夜燈をつけて行き交う船の標となっていたのではと推察され、本願寺もかつては現在の場所ではなく海辺に寄った所にあり海徳寺と同じ役割を果たしていたのではないでしょうか。ちなみに寺院の呼称に沖を用いるのは時宗のみだそうです。
 鎌倉時代の僧・一遍上人は「捨聖(すてひじり)」の別名で呼ばれることがあるほど、徹底して「捨」を説いたことで知られます。
 一遍上人は「ものを捨てよ」という次元を超えて、「知恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賎高下(きせんこうげ)の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また、諸宗の悟りをも捨て、一切の事を捨てて……」ということを説かれました。
 しかし、現代は智慧にもたどり着いていない知識にかじりついていますね。
 一遍は、伊予(いよ)国の豪族・河野通広(みちひろ)の子。
 河野氏といえば、瀬戸内海の水軍を率いた有力な武士である。しかし、承久の乱で京方について没落し、一遍が生まれたころは、かつての力を失っていた。
 十三歳で九州におもむき大宰府の寺に入る。
 岩窟に日を過ごすこと六カ月、おもむろに山を下りた一遍は、家を捨て、妻子を捨て遍歴の旅に出た。
 そして、五十一歳で他界するまで、その旅をつづけることになった。




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