一里塚
相模原市南区新戸  標高:46.4m
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 行幸道路として親しまれている県道は、古くは宿場のあった府中を目指す府中道と呼ばれていました。この他にもう一つ、脇往還としての府中道があり、その道筋には一里塚が築かれていました。
 元和2年(1616)、徳川初代将軍家康が亡くなると、幕府は駿河国久能山に埋葬しました。しかし、僧天海の進言によって日光に改葬することになり、江戸市中を抜けない大掛かりな移送が計画されました。葬列が通る道筋には一里(4km)ごとに榎(えのき)を植えた大小一対の塚が築かれました。新戸地区にもこの時築かれたと言われる一里塚があります。新戸公園の前に塚というほどの高さはありませんが、片方だけ残っています。府中方面に一里塚を追ってみると、4km先の麻溝台地区(旧下溝村)の塚はすでに消滅していましたが、かっては二ツ塚と呼ばれていたそうです。更に、4kmほど北の町田市の木曽地区、そのさらに北の町田市小野路の一里塚は当時を忍ぶことができます。