山中稲荷神社
厚木市下荻野  標高 53.3m
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荻野山中藩陣屋跡(市指定史跡)

 現在の下荻野字山中には、荻野山中藩大久保家の陣屋がありました。
 この大久保家は、相模国愛甲郡中荻野村を中心として、合計1万3千石を領した小さな大名でした。初代の大久保教寛(のりひろ)は、小田原藩主大久保忠朝の次男で、元禄11年(1698)、相模国足柄上郡、駿河国駿東郡内の新開地6千石を分けられ、分家しました。宝永3年(1706)駿河国駿東郡、富士郡に5千石の加増を受けて1万1石の大名となり、更に享保3年(1718)には、相模国大住郡、高座郡、愛甲郡内に5千石の加増を受け、総計1万6千石となります。この頃、陣屋が駿河国駿東郡松永(現静岡県沼津市)に置かれたようです。2代教端(のりまさ)の時、弟に3千石を分けて、大久保家は1万3千石となり、明治維新に至ることになります。
 天明3年(1783)頃、5代教翅(のりのぶ)は、陣屋を松永からこの地に移し、以後、荻野山中藩と呼ばれるようになりました。
 その後、教翅から教義に至る三代、80余年間に渡って存在したこの陣屋は、慶応3年(1867)12月、幕末の騒乱の中で討幕派の浪士たちの襲撃によって一夜にして焼失してしまいました。この事件は、やがて京都の鳥羽・伏見の戦いの一つの原因になりました。
 荻野山中藩は明治4年7月に廃藩、厚木市内の旧領は荻野山中県、足柄県を経て神奈川県に編入され、陣屋跡は民間に払い下げられました。
 平成8年5月、「山中陣屋跡史跡公園」として整備開園され、厚木市指定史跡として保存が図られています。

 「文化財散策ガイドあつぎ」(厚木市教育委員会発行)より
 幕府を開いた徳川家康は、再び戦国の世に戻さないことを目指ための政策の一つとして、諸大名の軍備拡大につながる新たな築城は許さず、また既存の城についても大掛かりな改修や拡張を禁じ、さらに陣屋を構えることにも厳しく制限していました。
 そのような厳しい制限の中で、大久保教翅の陣屋構築願いは容認されました。許された背景としては、大久保家の先祖が家康以前の松平家と深い君臣関係があり、その後も家康に対して忠誠を尽くしてきたこと、および教翅の出身である小田原藩が幕府の親藩であったことで、それらにより特別な配慮がされたものと思われます。
 江戸中期の天明に入って陣屋の築造が計画されました。計画は先ず候補地の選定から始められたが、大久保家は相模国の他に駿河にも知行地があって、その両方を検討する中で、江戸に近い相模国に陣屋を設けることが決まりました。
 天明3年(1783)から用地の最終的な選定や土地の買い上けが始まりましたが、陣屋として最適な地勢や自然環境などを考慮した結果、候補地を中荻野村の字山中に決定し、そこに1町4反余りの主地を買収しました。
 この土地の北側には甲州道が通っていて通行の便が良く、また南側には荻野川が流れていてそれが天然の堀の役目をしていました。その敷地内に藩主が住む御殿と家臣たちの長屋の他に土蔵・厩・辻番所・物置などの建物と2つの門と馬場・塀・矢場などが計画されました。
 こうして計画が終わり、造営工事が進められた。翌天明4年の暮れには馬場や矢場を除く第1期の工事が完了し、藩主の教翅が行列を組んで念願の相模の領地に初入部したのであった。現在の陣屋跡は一部が公園として残されているが、大部分が住宅地となっています。往時を偲ぶものは稲荷社と手洗石だけです。この稲荷社は古くからこの地にあったもので、陣屋の工事中に再興し、山中稲荷として祀ったといいます。
厚木の郷土史シリーズ ~厚木の歴史的石造物を巡って~ 制作:澤田五十二より)

制作 澤田五十二

山中陣屋の襲撃

 厚木に来たのは東海道に向かった水戸浪士の鯉淵四郎を長とする相州襲撃隊の15人で、初めの計画では箱根の関所を守る小田原藩を目標としていた。しかし平塚付近まで進むと、すでに田原藩が襲撃を察知して兵を出したとの情報が入ったため、支藩である荻野山中藩の襲撃に変更して厚木に向かったのである。
12月15日の昼過ぎに厚木村に着いた浪士隊は、旅籠で料理屋も兼ねた熊坂屋に入って休息をとったが、その頃には地元や近在の暴徒らも加わって30人ほどに増えていたという。
襲撃の後、土蔵から武器や弾薬を略奪した浪士隊は建物に火をつけて炎上させ立ち去ったが、さらに付近の豪農や商家など5軒に押し入って軍用金借用などの名目で金を奪い、夜明け頃には津久井方面に立ち去った。
このようにして、五代藩主の大久保教翅が入部して以来80年続いた山中陣屋は焼け落ちてしまったのであった。
厚木の郷土史シリーズ ~厚木の歴史的石造物を巡って~ 制作:澤田五十二より)
 一行は暗くなってから熊坂屋を出て妻田村に入り、すでに調べていた豪農の永野杢左衛門の家に押し入った。永野家では家人を脅して450両もの大金を強奪し、その後に目標の山中陣屋に向かった。
陣屋にいた一行は、二手に分かれて表門と裏門を破り陣屋内に乱入した。この襲撃時には藩主の
大久保教義は江戸詰めであったため、陣屋内には留守を守る十数名の家臣たちと奥女中しかいなかった。
家臣の内では、表門で立ら向かった奉行の三浦正太郎が斬られて重傷を負ったが、多くの家臣は余り抵抗することなく近くの農家に逃れたりしたので、死者は3人ほどであったといわれる。






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