蚕影神社
厚木市中荻野  標高 70.9m
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 かつて市内には 1,500 軒を超える養蚕農家があったそうです。 かっては養蚕はこの地域の生活を支えてきたのでしょう。
 現在はたったの数軒、隆盛を極めたかつての面影はないですね。

 1182年、飯山の金剛寺が起こした訴訟文書に「蚕養」の記事(『吾妻鏡』に載る)があるそうです。その内容は「金剛寺の僧侶等の申し出は、古庄の郷司近藤太が不当な行為をし、由緒のある山寺に雑務を課したり、山狩りや養蚕に使うこと等、みっともないことです。速やかに止める様に」といった内容で、頼朝様が花押を書いて認め、速やかに止める様に命令が出た、とのことです。

 日本では古代から養蚕が行われており、吾妻鏡の、「蚕養」の記事は厚木市域における養蚕に関する初見の資料だそうです。
 生糸というのは、江戸末期の日本にとっては貴重な輸出商品だった。明治維新期の日本の近代化は、生糸によって成し遂げられたと言っても過言ではないほどである。
 実は、当時の日本はすでに生糸の生産においては、世界最高水準にあった。江戸時代に出版された養蚕の技術書の中に、『養蚕秘録』というものがある。これをシーボルトが日本から持ち帰り、1848年にはフランス語に翻訳されて出版されている。日本の養蚕技術がそれだけ高かったということである。しかも、幕末にはヨーロッパの生糸産業は振るわなくなっていた。
 格安で品質のいい日本の生糸は、欧米で重宝され、瞬く間に重要な輸出産品となったのである。いわば生糸は、当時の日本全体の貴重な財産だったわけだ。
 その生糸の収益を、幕府は独占しようとしたのである。これに対して、薩長や尊王派の志士たちは、非常に警戒した。
 坂本龍馬などは、小栗上野介のこの「兵庫商社」に対抗して海援隊をつくったり、薩摩や長州に働きかけて「下関商社」というものをつくろうと画策したりもしたのだ。

(「お金の流れでみる明治維新」大村大次郎著より)
 ヨーロッパではフランスが生糸の一大産地だったが、蚕というのは飼うのが非常に難しく、しばしば病気によって不作になることがあった。日本の開国時も、ヨーロッパの生糸が非常に不作になっている時期だった。1850年代からフランス、イタリア、スイスなど主要な生糸生産国の蚕が病気に侵され始め、
1868年には全滅の危機に瀕していた。
 日本が開港したのは、1859年なのでまさにどんぴしゃりのタイミングで、日本の生糸が世界市場になだれこんでいったのだ。
 ヨーロッパでは生糸は品薄であり、必然的に日本の生糸を輸入することになったのだ。






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