新宮神社
鎌倉市雪ノ下二丁目  標高:33.4m
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 境外末社で、今宮神社ともいう。

 むかしは、「魔境にて、天狗ここに住むという」と旧書に記される。当時は八幡宮の境内からだいぶ離れ、深い森林の中であったのでしょう。

 祭神は後鳥羽天皇、順徳天皇、土御門天皇。

 「承久の乱」(1212年)の朝廷側の人物たちで、幕府は勝利をおさめ、後鳥羽帝を隠岐へ、順徳帝を佐渡に配流し、両帝ともその地で歿した。また、土御門帝はみずから土佐、のちに阿波へおもむいた。

 その争いに勝つには勝ったものの、幕府は後鳥羽帝の怨霊をおそれ(実際にさまざまな怪異が生じたという)、1247年(宝治元年)四月に当社を創建した。そのときか、のちのことか不詳ながら、順徳帝を合祀、土御門帝は明治以降の合祀である。
 承久の乱の後、後鳥羽(ごとば)・土御門(つちみかど)・順徳(じゅんとく)の各上皇が流罪になると、国中に火災や悪い病気とかききんが次々に起こりました。人々はこれは上皇のたたりであると恐れ、その魂をなぐさめるため、今宮を建てておまつりしたそうです。その後、各地に今宮が建ち、日本中に広がったといわれています。お宮の後ろにあった六本杉には、天狗が住んでいたとか、光るものを見たなどという話が伝わっていました。この杉は、幹が六本に分かれた珍しい形をしていたそうです今はもうありません。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
碑文

御由緒 四条天皇延應元年(1239)鎌倉中處々喧譁闘諍の事あり、特に其の5月22 日には大騒動を起せしと云ふ。茲日(このひ)後鳥羽院は隠岐に崩御し給ふ。由りて斯は其の怨念の然らしめし所ならんとて寶治元年(1247)年4月大臣山の西麓に今宮を建て 其院(後鳥羽院)の尊霊を勧請し奉り順徳院及び護寺僧長賢を合祀せらる。長賢は承久の役、官軍に属して奮戦後捕はれて陸奥に謫(たく)せられ(配流され)し者といふ。今宮は又新宮と書す。
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