安養院(浄土宗)
鎌倉市大町3-1-22 標高 12.7m
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 安養院の地には、尊観(そんかん)が開いた浄土宗の善導寺(ぜんどうじ)がありましたが焼失しました。北条政子(ほうじょうまさこ)が亡き夫頼朝(よりとも)の冥福(めいふく)を祈って、笹目(ささめ)に建てたともいわれる長楽寺(ちょうらくじ)が、兵火に焼かれてしまったため、鎌倉末期にここに移され、政子の法名である安養院を院号とし、これが寺名になったと伝えられています。
 その後、安養院は1680年(延宝8年)の火災で全焼しましたが、源頼朝の家臣田代信綱(のぶつな)が建てた比企ケ谷(ひきがやつ)の田代寺(たしろじ)の田代観音堂(たしろかんのんどう)を移して再興しました。
 そのため、本堂には、正面前に本尊の阿弥如来座像(あみだにょらいざぞう)をまつり、その後ろに、田代寺にあった、坂東(ばんどう)三十三観音の第三番である約1. 85mの千手観音像(せんじゅかんのんぞう)が安置されています。本堂には、本尊の左右に4体の観音菩薩(かんのんぼさつ)の像があり、本尊に向かって左脇には、美しい尼姿の北条政子像と、法然(ほうねん)や善導大師像(ぜんどうだいしぞう)が安置され、本尊の奥には願行上人像(がんぎょうしょうにんぞう)や尊観行上人像(そんかんしょうにんぞう)、本尊に向かい右脇には釈迦如来(しゃかにょらい)の誕生仏像と釈迦(しゃか)の亡くなるときのようすを描いた涅槃図(ねはんず)が掲げられています。また、「安養院如実妙観大禅定尼(あんよういんにょじつみょうがんだいぜんじょうに)」と記した北条政子の位牌(いはい)も安置されています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 田代観音と呼ばれて、出世や良縁を求める人々から厚く信仰されている千手観音については、次のような話が伝わっています。
 千手観音は、10世紀の末、ちょう然という僧が中国の宋から持ち帰り、天皇をはじめ宮中の人々から厚く信仰されていましたが後三条天皇の子孫にあたる



田代冠者信綱(たしろかんじゃのぶつな)の手に渡り、信綱は日頃からこの千手観音を厚く信仰していました。
 頼朝が伊豆で挙兵し石橋山(いしばしやま)の合戦で敗れたときも、頼朝に味方していた信綱は頼朝とともに岩屋の中にかくれて難をのがれ、一の谷の合戦では、義経(よしつね)に従って7000余騎をひきいて攻め入り、非常な手柄をたてました。難をのがれたり、手柄をたてることができたりしたのも日頃から信仰している千手観音のおかげだと深く信じ、信綱は戦場に向うときはいつもこの観音の胎内にある画像を身につけていたといいます。
かなえてくれるといわれ、また子安地蔵(こやすじぞう)とも呼ばれています。この地蔵菩薩像(じぞうぼさつぞう)は南北朝時代(なんぼくちょうじだい)(14世紀)の作とみられます。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 また、政子もこの観音を信仰し、この観音に祈ったおかげで頼朝と結ばれたり、頼朝が天下をとることができたりしたことから、その後、千手観音は、良縁観音(りょうえんかんのん)とか昇竜観音(しょうりゅうかんのん)とか呼ばれたということです。
 信綱はこのありがたい観音像をどうしようかと
考え、この観音のご利益に感謝している政子に相談し、鎌倉に田代寺を建てて、観音堂に安置することにしたということです。
 門の脇にある地蔵堂(じぞうどう)には「日限地蔵(ひかぎりじぞう)」と呼ばれる石地蔵がまつられていて、きめた日数のうちにお参りすれば、願いごとを













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