松岡山 東慶寺(臨済宗円覚寺派)
標高 30.6m
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 寺号は詳しくは東慶総持禅寺と称する。

 東慶寺は現在は男僧の寺ですが、明治36年(1903年)までは尼寺で、尼五山の第二位の寺でした。後醍醐天皇の皇女用堂尼が5世住持として入寺してから格式の高さを誇った。江戸時代には、豊臣秀頼の娘で、徳川秀忠の養外孫にあたる天秀尼が20世住持として入寺している。

 近代になって、中興の祖とされる釈宗演が寺観を復興した。釈の弟子にあたる鈴木大拙は禅を世界的に広めた人で、寺に隣接して鈴木の収集した仏教書を収めた松ヶ岡文庫があり、世界的禅文化の発展の拠点となりました。

 鎌倉には尼寺として、東慶寺、知足寺、海岸尼寺、法華寺などが存在した。江戸時代、東慶寺は縁切寺として有名で、当寺に逃げ込んで、髪を切り、経を読み、和裁などを行って、二年間を過ごし、その後離婚が認められていた。

 質素なお寺さんです。しかし、墓苑は古くて立派なお墓がたくさんありました。

 江戸時代も「DV=夫婦間暴力」があったのでしょうね。今もDVやがある世の中、「縁切寺」(DVシェルター)としての役割を果たすお寺さんがあってもよいのではないでしょうか。
 東慶寺といえば、駆け込み寺とか、縁切り寺とも呼ばれ、女性にはこの上なくありがたい男子禁制の尼寺だった。妻の方から離縁を申し出ることなど許されない封建時代にあって、ここに駆け込めさえすれば、「離婚できる」というのだから、江戸時代、多くの女性がこの尼寺に駆け込んだものもうなずける。江戸末期の150年間には約二千人の女性が駆け込んだともいわれている。江戸時代には女性の自由が極端に制限されていた時代である。そんな時代にこの東慶寺こそ、女性にとって人生をやり直せる稀有な緊急避難場所だった。

 定年と同時に、妻から三行半(夫から妻または妻の父兄にあてた離別状…三行半に書く習慣からいう)をポンと渡され、おろおろする中高年の男性も多い昨今、往時の抑圧された女性達の境涯を想像するのは難しい。女性にとって圧政への時代に、この尼寺の担った役割はきわめて重要だっただろう。封建制度の矛盾のほころびを補う役割を果たすことで、ガス抜きの効果をも果たしていたのかもしれない。時代の必然の賜物だったのかもしれない。

  (「鎌倉なるほど事典」楠本勝治著 実業之日本社 より)
 山門。
 東慶寺は、山号を松岡山(しょうこうさん)という臨済宗の寺です。1285年(弘安8年)、北条時宗(ほうじょうときむね)の夫人の覚山志道尼(かくさんしどうに)を開山として、時宗の子貞時(さだとき)が建てたといわれていますが、源頼朝の叔母の美濃局(みののつぼね)が創建し、山尼が禅宗に改めたともいわれてい
ます。
 覚山尼は、時宗が仏門に入ったとき、一緒に尼となって東慶寺に入り、禅の修行に励みました。有名な「縁切寺法(えんきりてらほう)」をつくったといわれていますが、これが確立されたのは江戸時代だといわれます。




 江戸時代、鎌倉では鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)・円覚寺(えんがくじ)につぐ寺領を持ち、建長寺(けんちょうじ)よりも多くなりました。
 明治時代になり寺法は廃止され、1902年(明治35年)には、古川尭道(ふるかわぎょうどう)が住職になり、開山以来の尼寺から男の僧の寺に変わりました。
 明治時代になり寺法は廃止され、1902年(明治35年)には、古川尭道が住職になり、開山以来の尼寺から男の僧の寺に変わりました。
 境内中央にあった仏殿(国重文)は、室町末期の禅宗様式の代表的なもの
 松の植え込まれた参道に入ると、正面に石段があり、その上に茅葺(かやぶき)の小さな山門があります。
 狭めの石段です。駆け込み寺であったためでしょうか。
ですが、1907年(明治40年)に横浜の三渓園(さんけいえん)に移されています。
 山門をくぐると左側に鐘楼(しょうろう)があり、ここには「観応元年」(1350年)の年号のある材木座補陀洛寺(ほだらくじ)の梵鐘(ぼんしょう)がかかっています。東慶寺の鐘は「元徳四年」(1332年)の年
号で静岡県韮山(にらやま)町の本立寺(ほんりゅうじ)に移っています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より








 境内中央にあった仏殿(国重文)は、室町末期の禅宗様式の代表的なものですが、1907年(明治40年)に横浜の三渓園に移されています。
 山門をくぐると左側に鐘楼。
 1350年(観応元年)の銘がある古いもので、かっては補陀洛寺にあったもの。東慶寺の鐘は「元徳四年」(1332年)の年号で静岡県韮山町の本立寺に移っています。
円覚寺   浄智寺
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