鎌倉大仏 高徳院(詳名:大異山高徳院清浄泉寺)(浄土宗)
鎌倉市長谷四丁目  標高:14.0m
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 開基(創立者)と開山(初代住職)はともに不詳だが、高徳院では法然上人を開祖としている。

 当初は、阿弥陀大仏を安置する大仏殿以外には付属する建物はなく、もともとは「大仏殿」が正式名称だった。

 1238年に着工した大仏は木造。1247年、大風で倒壊。1252年に現在の青銅で鋳造された。1495年の津波で大仏殿が流され、露天の大仏になってしまった。この年は北条早雲が小田原城を奪取した年であり、鎌倉はすでに大仏殿を再建する経済力はなかったのでしょう。

 かってこのあたりは鎌倉の西の果て、そのため、刑場があったり、流人が集まる場であったり、ハンセン病患者の収容施設があった場所。そうした場所を大仏によって「悪書」を「聖化」し、都市鎌倉、そして関東地方を護持させようとした。

 奈良の大仏は国家事業として建立されたが、鎌倉の大仏は、鎌倉幕府としての事業ではなかったようで、「吾妻鏡」にも建立についての記載がほとんどないようです。
 寺の縁起(えんぎ)によると、頼朝(よりとも)が鎌倉に入り、東国にも大仏を造ろうとしましたが、果たさずに世を去ったので、仕えていた稲多野局(いなだのつぼね)が実現させようと計画したといわれています。頼朝夫人政子(まさこ)の力添えもあったといわれ、僧の浄光(じょうこう)は全国まわってお金を集めました。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡(あずまかがみ)』によれば、1238年(暦仁元年)に木造の大仏を造り始め、大伽崖もあわせて6年後に完成させたということです。
 その後倒れましたが、嵐によるものという説があります。1252年(建長4年)、今度は青銅の大仏を造り始め、お堂も建てましたがかなり年月をかけたようで、完成の年ははっきりしていません。この大仏の鋳造(ちゅうぞう)には、丹治久友(たんじひさとも)が関係したことは確かだとみられます。こんな大きな大仏をどのようにして造ったのかというと、下から順に土を盛りあげて足場を造り青銅をつなぎあわせていったのです。つなぎめの横の線が、今もはっきりと見えます。発掘調査の結果、現在の大仏の近くで鋳造したことがわかりました。
 大仏殿はその後、地震や台風などにあったうた、1495年(明応4年)の津波で流され、露坐(ろざ)の大仏となりました。発掘調査で礎石(そせき)も確認されました。再建の計画は何度がありましたが実現できず、室町時代からずっとこの大仏は、長谷の四季を背景に仰ぎ見られたことになります。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
 「大異山」を記す扁額が掲げられています。
 仁王門に向かって左側の信号のそばに庚申塔(こうしんとう)などが四つ並んでいます。室町時代の初めのものもあり、四方に仏像などが彫られている珍しいものです。これらは、旧大仏切通にあったものですが、新たにトンネルの道路を作ったときに、この門前に移されたといわれます。
 仁王門の両側には赤と青の仁王が立っています。向かって右の赤い仁王はロを開き「阿(あ)」といって物事の始まりを、左の青い仁王はロを閉じて「呼(うん)」といって物事の終わりを意昧しています。また、「阿吽(あうん)」には悪い空気を吐き出しよい空気を吸
な微笑をたたえているように感じられます。頭のつぶつぶは螺髪(らはつ)という髪のうずまきで656個あるそうです。額にあるこぶのようなものは白毫(びゃくごう)といい、白銀で作られているそうで、世界中を照らす仏の光明(こうみょう)が放たれるといわれています。上体の部分が下部に比べて大きく、頭もからだに比べて大きいことは遠近法の法則により、5mくらい離れて拝んだときつりあいがとれた形に見えます。また、少し前かがみになっていることは、前から見たときかえって自然に感じられます。大仏の大きさは、高さ11.31m(台座をふく
うという意味があり、寺の中に悪い人を入れないという守り役としてふたりの金剛力土がまつられているのです。
 仁王門をくぐり左側の入場門を抜け参道に出ると正面に安らかな表情の大仏が現われます。この大仏は、正しくは阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)といい、
鎌倉の仏像では唯一の国宝です。まわりに白い回廊(かいろう)、後ろの後光山(ごこうざん)の緑にはえてどっしリと安定感のある姿はなんともいえない気品をただよわせています。弓なりのゆるい曲線の眉から鼻にかけて高く通っている線はすぐれた彫刻の技術を思わせます。水平な眼は半眼に開き、ロもとはおだやか












 高徳院の本尊で青銅製の「阿弥陀如来坐像」。
 「誰が」「何のために」作ったのでしょうか?
 15世紀の末には、大仏の中(大仏の中は空洞)で、博打打ちたちが賭け事をしていた、という。
 最初の大仏は木造で1243年に完成したが、台風により崩壊したため、1252年、新たに青銅製の大仏の鋳造が始められ、大仏殿に安置された(完成した時期は不明)。
めると13.35m)、顔の長さ2.56m、眼の長さ1m、まゆの長さ1.24m、ロの幅O.82m、耳の長さ1.9mです。重さは120トンあり、青銅で造られています。顔のあたりにむかしは金箔(きんぱく)でおおわれていた名残をわずかに見ることができます。大仏の胎内に入ると背中にあたる部分の窓から入る光によって、
修理したことの説明を刻んだ銅板の文字を読むことができます。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より


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