行時山 光則寺(日蓮宗)
標高 20.0m
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 1274年の創建。開基は北条氏の家臣・宿谷光則(やどやみつのり)、開山日朗上人。

 開基の宿谷光則は、日蓮が佐渡に流罪になったとき、ともに捕らえられた日蓮の高弟日朗を幽閉し監視する任についたが、日朗は自らの不運を嘆くことなく、弟子の案ずる姿に心打たれた光則は、後に日蓮宗に帰依し、屋敷を寺にしたといわれる。

1650年建立の本堂の中には非公開ではあるが、日蓮、日朗の坐像が安置され、境内の後山には日朗が幽閉されたという土牢跡が残っている

 山野草などがよく手入れされており、境内というより庭園といった感じです。
 このお寺さんに何故か二羽の孔雀(飼育)がいました。
 行時(ぎょうじ)山光則寺と号し、もと妙本寺末。開山日朗。開基は北条時頼の近臣宿屋光則。境域は光則の居宅跡という。文永八年(1271)九月、日蓮が龍ノロ法難で佐渡に流罪になったとき、日朗ら門弟は捕えられて光則にあずけられ、光則は彼らを土牢に幽閉した。この間に、日蓮に帰依した光則は居宅を寺に改め、父行時(ゆきとき)の名を山号に、自分の名を寺名にしたと寺伝する。詳し寺史は不明。江戸時代、古田重恒(しげつね)の後室大梅院日進(1669示寂)が寺容を再興したので、「大梅寺」「大梅院」とも称された。現在は山門・本堂(慶安三年(1650)建立)。庫裡などからなる。

[文化財]海棠(かいどう)の巨木が本堂前にある。本堂内に祀るのは、万治四年(1661)銘の木造日蓮坐像、寛文十二年(1673)伝日朗入牢七人衆像、天保十五年(1844)彩色修補の大梅院尼像など。   (「鎌倉事典」より)
 山門。
 朱ぬりの山門をくぐると、正面に日蓮(にちれん)の字を刻んだ「立正安国論御勘由来(りっしょうあんこくろんごかんゆらい)」の大きな石碑が建ち、隣にその説明の石碑があります。その奥の梅林を進むと深い傾斜の屋根をもった本堂があります。この本堂は江戸時代の1650年(慶安3年)に建てたものと
伝えられ、修理を加えて今まで続いているものです。本堂の正面に、日蓮が弟子の日朗(にちろう)をたたえた「師孝(しこう)第一」の額がかかっています。公開されませんが、本堂の中には日蓮・日朗や日朗と共に牢に入れられた7人の像などがまつられています。




 ここはもと、北条時頼(ほうじょうときより)の有力な家臣の宿谷行時(やどやゆきとき)の屋敷でした。日蓮は政治の中心地である鎌倉にきて熱心にを法華経(ほっけきょう)を広めました。そのころ、地震や火事、病気などの災害が続いたので、日蓮は、『立正安国論』を書き、
 「このように災害が続くのは思想が誤っている。人々が正しい信仰をもてば国が安らかになる。」
と説きました。
1260年(文応元年)、宿谷行時の屋敷を訪れ、『立正安国論』を説明し、北条時頼に伝えるよう頼みました。
行時山とし、寺号は子の名からとって光則寺(こうそくじ)とつけたといわれ、開山は日朗です。
 山門上部。
 山門上部。
この寺は、それを幕府に差し出した場所として知られています。日蓮はその後も布教(ふきょう)活動を続けますが、捕えられて片瀬の龍ノロ(たつのくち)で斬られることになり、弟子の日朗・日真(にっしん)(日進)・四条金吾(しじょうきんご)父子なども捕えられ、行時の屋敷の裏の土牢に入れられました。
行時とその子光則(みつのり)は大切に預(あず)かったそうです。
 日蓮はその後佐渡に流されますが、許されて鎌倉を経て身延山(みのぶさん)に入ります。やがて光則も幕府に仕え重い役につきますが、法華経を信じ屋敷を寺としました。寺の山号は父の名からとって






 山門から本堂を見ると。




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