御霊神社(権五郎神社)
鎌倉市坂ノ下4-9  標高 出発:10.2m
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 もとは関東平氏五家の始祖、鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされています。その後、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになりました。
 後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれました。

 景政の武勇伝から「目の神様」として親しまれている。例大祭には県の無形文化財に指定される「面掛行列」が行われます。
 鎌倉駅から江ノ電に乗り、長谷駅を下車して御霊神社へ。宝物館の中には、江戸時代の面掛(めんかけ)行列に使われた仮面があり、その中のひとつが福禄寿。
 毎年、九月八日に県指定の無形民俗文化財である面掛行列が行われる。行列の仮面姿は・種類で、福禄寿をはじ的、阿亀(おかめ)、女(とりあげ)、爺(じい)、鬼、異形(いぎょう)、鼻長(はななが)、烏天狗(からすてんぐ)、翁(おきな)、火吹男(ひよつとこ)のほか、猿田彦(てんぐ)が町を練り歩きます。
 
 鳥居のすぐ前を江ノ電が通っています。
 御霊(ごりょう)神社の祭神は鎌倉権五郎景正(政)(ごんごろうかげまさ)です。景正は土地の人には「権五郎さま」と呼び親しまれています。
 御霊神社というのは土地の神として祖先をまつる神社のことで各地にあります。桓武(かんむ)天皇の子孫平良兼(よしかね)の孫、村岡五郎忠通(ただみち)
という人の子に為通(ためみち)・景成(かげしげ)・景村(かげむら)・景通(かげみち)・影正(かげまさ)の五人がいて、五家に分かれたといわれます。忠通の死後、五家が栄えるようにと鎌倉に神社を建て、忠通と五家の祖先をまつり、御霊の神とか、五霊の神として尊敬してきたといわれています。一説には、




鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の五平氏をまつるともいわれ、これらの本拠地に御霊神社が残っています。いずれにしても鎌倉に幕府ができるより前からあったと伝えられています。やがて鎌倉権五郎景正だけをまつるようになったのは、景正があまりにも武勇がすぐれていたことやこのあたりの領地を開いたことからでしょう。
 景正は後(ご)三年の役(えき)(1083~1087年)に16歳で源義家(みなもとのよしいえ)に従って東北地方の戦いに出かけました。秋田の金沢の柵(さく)という城を攻めたとき、先頭に立って
顔を土足で踏まれてはこの上ない武士の恥だ。恥をかかせるような者は自分のかたきである。」
と言いました。為次はこれには反論できず、今度はひざで押さえて、その矢を抜いてやりました。多くの人はこれを見て、
 「景正はなんと強い人だろう。年は若いが恥を重んじるりっぱな武士だ。」とほめました。
 こうして景正の勇名は人々に知られ、御霊神社の祭神として尊敬されるようになったのです。
 今の社殿は1913年(天正2年)に建てられたもので、そのときに寄進をした人達の名前がまわりの石柱に刻まれています。
おおいに活躍しましたが、敵の鳥海弥三郎(とりうみやさぶろう)という者に右の眼を矢で射られました。彼は目の矢も抜かずに矢をつがえ、相手を射倒してしまいました。味方の陣に引きあげ兜を脱いでから
 「わたしは、傷ついた。」
と大声でどなって倒れたということです。
味方の三浦平太為次(継)(ためつぐ)という武士が、毛皮のくつをはいたその足で、景正の顔を押さえて矢を抜こうとしました。景正は倒れたままさっと刀を抜き、為次のよろいの下の方から突き殺そうとしました。為次はびっくりして問いただすと、
 「弓矢に当たって死ぬのは武士の本望だが













神社と氏子(うじこ)の結びつきが強く、例祭には一軒ごとに一役を行うという珍しい伝統的な形を今も守って続けられています。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より
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