普明山 成就院(真言宗)
鎌倉市極楽寺1-1-5 標高 34.8m
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 平安時代の初期、真言宗の開祖である弘法大師さま空海がこの地を訪れ、景勝地だったこの地で数日間に渡り護摩供・虚空蔵菩薩求聞持法(真言を百日間かけて百万回唱えるというもの)を修したという霊跡に、1219年に鎌倉幕府第三代の執権北条泰時は京都より高僧を招き、本尊に不動明王をまつり寺を建立し、普明山法立寺成就院と称した。

 1333年新田義貞の鎌倉攻めの戦火にて寺は焼失し、奥の西が谷に移っていたが江戸時代の元禄期(1688年~1703年)に再びこの地に戻り、僧祐尊により再興され現在にいたっている。

 本尊は縁結び不動明王として信仰されていますが、最近は恋愛成就の寺院として、また、学業成就、安産、身代わりのお守りが用意されている。


 虚空蔵堂そばの、「星ノ井」の底から見つかった石(明星石)が保管されているようです。伝説にあるような光輝はなく、ただの石(硯や碁石に使われる黒色珪質頁岩)になっているようで、高さ20cm、周囲31cmの砲弾のような形のようです。
 坂の頂部に近い左手の石段を上ると、古義真言宗の寺、普明山成就院がある。山ノ内の長寿寺、円応寺などと同様、昔の高い道のところに置き去りにされた格好であり、この寺の場合は主要観光ルートから外れているので、常に粛然と静まっている。
 縁起によれば、弘法大師・空海が護摩を焚いて修行した跡に北条泰時が開いた寺という。時に順徳天皇の1219年11月21日。
 その後兵火にあい、他へ移っていたが江戸期にまた当地へカムバック。
 寺宝としては、星の井から出た明星石のほかに本尊不動尊明王、繊細なきり金文様をそなえる千手観音像。それから文覚上人荒行像と呼びならわされているユニークな小像を持っている。
 この像について、元国宝館員の三山進氏は、専門家の立場から、「この種の像は他の社寺にも数点伝わっており、もともとは毘沙門天が足下に踏まえる踏鬼のようなものから派生したのではないか」と考えられるが成就院の作例は、わが国近代彫刻の先駆者荻原守衛が明治の末頃に目をとめ、『吾人は期せずしてここに、吾人がエジプ卜彫刻に見出したような野趣と力と、所謂プリミチーブな一傑作に接し』たと感激して自ら文覚像を刻むモデルにしたというエピソードを持」と評しておられる。(鎌倉市民、第28号、鎌倉のみどころ5)
 文覚上人を開山とする材木座の補蛇落寺に、これと瓜二つの像があることを知ったので一言つけ加えておく。
 石段を成就院の墓地に向って下って行くとき、暗欝な墓場の光景とはきわ立って対照的に、眼下はるかに由比ケ浜から鎌倉の中心部一帯、三浦半島の低い山々まで一望のもとに見晴せるのは心うれしいことである。長谷寺の久米正夫胸像のところから見下す坂ノ下海岸も味があるが、ここからの海の眺めも捨てがたいものがある。
 「鎌倉 趣味の史跡めぐり」(長峰 五幸 著)より
 山門から中に入ると右側に弘法大師(こうぼうたいし)の名で知られる空海(くうかい)の大きな像がたっています。その奥に法隆寺(ほうりゅうじ)の夢殿を思わせる小さな八角堂があり、聖徳太子(しょうとくたいし)をまつっています。太子の1300年忌にあたる1921年(大正10年)に建てたそうです。
 手入れの行きとどいた庭を前にした本堂があり、ガラス越しに参拝します。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より


 ここは、弘法大師が諸国巡礼の折、数日にわたって智恵を授(さず)かる虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)をまつる法を行った所だと伝えられています。そのときの鈴の音はあたりに響き、香の煙は海風にのってすみずみまで行き渡り、まわりに住んでいた人々は感激の涙を流したといわれます。そしてこのあたりの作物はよく実り、人々のくらしが安らかになったということです。その後、このことはしだいに忘れられていましたが、1219年(承久3年)3代目の執権(しっけん)北条泰時(ほうじょうやすとき)が都から僧の辰斎(しんさい)を招き、
この切通に寺を建て鎌倉の守りとし、北条氏の繁栄を祈りました。しかし、1333年(元弘3年)鎌倉幕府の攻防戦が激しく焼け落ちてしまい、寺は一時立ち退きましたが、江戸時代に再建され、今日まで続いています。


 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より















 本堂
 寺の本堂は公開されませんが、本尊は不動明王(ふどうみょうおう)で千手観音(せんじゅかんのん)・大日如来(だいにちにょらい)・地蔵菩薩(じぞうぼさつ)・弘法大師の像もまつられています。頼朝(よりとも)と親しかった文覚の「文覚上人(もんがくしょうにん)荒行(あらぎょう)の像」といわれるものも安置されてい
ます。明治になって荻原守衛(おぎわらもりえ)という彫刻家がこの文覚の像を見て感動し「文覚」という彫刻を制作しました。この人は、フランスに留学しロダンの彫刻の技法を学び、日本の近代彫刻を確立した人で、この作品を文展、(文部省美術展覧会)に出品し入賞作となりました。「文覚」は今、出身地の長野県
安曇野市の碌山(ろくざん)美術館にあります。

 鎌倉市教育委員会発行「かまくら子ども風土記(13版)」より




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