海福寺(時宗)
尾道市西土堂町  標高:15.8m
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 1320年(1328年とも)遊行二祖上人の弟子、他阿上人の開基。本尊は阿弥陀如来。

 入母屋造、瓦葺で、中央後方の部屋が仏間になっている。一番の特徴は、幅の広い縁側(広縁・ひろえん)の上に、ー枚ものの板をとりつけた鏡天井を設け、虹梁(こうりょう・緩やかな弧をえがいた梁)と桁でその天井を支えている点である。全体的に非常に簡素な造リだが、江戸時代の時宗本堂の遺構としては全国的にみても貴重である。

 本堂の西側にある「三ツ首様」は処刑された盗賊の首をまつったもの。1828年の頃、尾道地方に想兵衛・亀蔵・利助という三人の盗賊がいたが、一風変わった連中で常に貧者に施しをしていた。

 三人が捕らえられ処刑された夜、この寺の住職勘応の夢枕に三人の霊が現れて、「我々三人の首を埋葬供養されたら、首より上の病を癒すであろう」と告げたので、住職は三人の首を請い受けて本堂の横に埋葬し、三人の戒名を刻んでねんごろに供養した。それから霊験まことにあらたかであるので「三ツ首様」はお香の煙が絶えない。
 時宗は一遍上人が開祖で一踊り念仏」で知られています。念仏を唱えながら、鉦(かね)や太鼓を叩いて踊るというのが踊り念仏で、民衆のなかに融けこみ布敵しました。鎌倉時代に盛んになりました。

 尾道には時宗の寺院が六ヶ寺あり、全国的に見て、一つの町にこれだけの時宗寺院が集まっているのは珍しいそうです。

 時宗寺院は、人々を分け隔てなく受け入れ、同時に「文化の発信元」にもなっていたようです。
 尾道には時宗の寺院が六ヶ寺あり、全国的に見て、一つの町にこれだけの時宗寺院が集まっているのは珍しいそうです。
 時宗は一遍上人が開祖で一踊り念仏」で知られています。念仏を唱えながら、鉦(かね)や太鼓を叩いて踊るというのが踊り念仏で、民衆のなかに
融けこみ布敵しました。鎌倉時代に盛んになりました。
 時宗寺院は、人々を分け隔てなく受け入れ、同時に「文化の発信元」にもなっていたようです。


 鎌倉時代の僧・一遍上人は、「捨聖(すてひじり)」の別名で呼ばれることがあるほど、徹底して「捨」を説いたことで知られます。
 一遍上人は「ものを捨てよ」という次元を超えて、「知恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賎高下(きせんこうげ)の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願う心をも捨て、また、諸宗の悟りをも捨て、一切の事を捨てて……」ということを説かれました。
 少し分かりやすくまとめると、「天才でない者は 捨ての一手で 生きていけばよい 。
身を捨てぬ人のほうが、なしくずしに人生を終わってしまうのだから、貴いいのちを塵芥(じんかい)のように捨ててしまうことになるのだ、と。
雑事を捨てろ 雑念を捨てろ」と
 一遍智真は「心に妄念を起すべからず」[語録]といっています。
 一遍は、十三歳で九州におもむき大宰府の寺に入る。岩窟(がんくつ)に日を過ごすこと六カ月、
おもむろに山を下りた一遍は、家を捨て、妻子を捨て遍歴の旅に出た。
 その出発のころ、「身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ」と詠みました。
 身を捨てる人は、ほんとうに捨てるのではない。かえって、










 「三つ首さん」、処刑された三人の義賊の首をまつったもの首から上の病を治すとか。
【民話 海福寺の三つ首さま】

 江戸時代の終わりごろ、尾道は凶作が続き悪い病気もはやり、世の中は騒然としていました。おまけにどろぽうや追いはぎまでも出没して、人々の心は安まることがありませんでした。




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